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E.T.A. ホフマン E.T.A. Hoffmann |
主な作品
| 「騎士グルック」 Ritter Gluck | |
| 「音楽新報」に始めて載った作品。奇譚の形をとりながら音楽論を語っている。 | |
| 「悪魔の霊液」 Die Elixiere des Teufels | |
| 不運の真っ只中で自分を空っぽにするつもりで一気に書き下ろした。狂気をこのように内側から描いた作家はこれまでなかった。 | |
| 「黄金の壺」 Der Goldene Topf | |
| ホフマンは自分の最高の作品だと思っていた。主人公は幻想のユートピアの中に入り込んでしまう。 | |
| 「くるみ割り人形とねずみの王様」 Nußknacker und Mausekönig | |
| チャイコフスキーのバレエ音楽で有名。 | |
| 「砂男」 Der Sandmann | |
| フロイトがエディプス・コンプレックスの古典的ドラマとして解釈した。「黄金の壺」とは反対に幻想が破滅へと通じてしまう不気味な物語だが、レオ・ドリーブはここから楽しいバレエ音楽「コッペリア」を作ってしまった。 | |
| 「ブランビラ王女」 Prinzessin Brambilla | |
| ハイネはこれをホフマンの最高傑作と認め、これを読んで頭がおかしくならないような人間はそもそもおかしくなるような頭を持ち合わせていないのだ、と言った。しっちゃかめっちゃかの狂想曲である。 | |
| 「牡猫ムルの人生観」 Lebens-Ansichten des Katers Murr | |
| 俗物教養猫ムルの自伝に懐疑的な音楽家クライスラーの物語が混ざりこんでしまった形になっている。クライスラーはホフマンの分身で生い立ちや、ユーリアへの愛など伝記的事実が語られている。夏目漱石がヒントにした、と言う説もある。 | |
| 「従兄の隅の窓」 Des Vetters Eckfenster | |
| 病気で動けない従兄が窓から人々を眺めている。想像力と観察力を武器に生きている従兄の姿がホフマンと重なる。 | |
「砂男」のあらすじ
日本語では以下の書籍が入手可能です。
| 1776年 | プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。 |
| 1778年 | 両親離婚。母とともに母の実家に引き取られる。 |
| 1786年 | 終生の友となるヒッペルと知り合う。 |
| 1792年 | 一族の伝統に従いケーニヒスベルク大学で法律を学ぶ。 |
| 1793年 | 9歳年上の人妻ドーラ・ハットと恋愛関係に陥る。 |
| 1795年 | ケーニヒスベルク裁判所で司法官試補となる。 |
| 1796年 | 3月、母の死。6月、ドーラ・ハットと別れてグローガウへ転居。 |
| 1798年 | 従姉のミンナ・デルファーと婚約。ベルリンの大審院で司法官試補となる。フリードリヒ・ライヒャルトに作曲を習う。 |
| 1800年 | 第三次司法試験に合格してポーゼンの裁判所の司法官試補に任命。 |
| 1801年 | 2月、ホフマンの絵と文でポーゼン社交界を風刺した戯画がばらまかれ、ポーランドのプロックへ左遷。3月、ミンナ・デルファーと婚約解消。7月、ポーランド人のミッシャと結婚。音楽に専念。 |
| 1804年 | 政庁顧問官としてワルシャワへ配転。12月歌芝居Singspiel「陽気な楽師たち」の作曲。初めてアマデーウスの名前を使う。 |
| 1805年 | 長女誕生。 |
| 1806年 | フランス軍進駐。プロイセン政府の解体により失職。 |
| 1807年 | 妻と娘はポーゼンへ。ホフマンはベルリンで貧困と飢餓。8月娘死去。 |
| 1808年 | バンベルクで音楽監督。再びミッシャと。指揮者デビュー失敗。 |
| 1809年 | 「音楽新報」に頻繁に執筆。 |
| 1811年 | 歌のレッスンの教え子ユーリア・マルクへの愛めばえる。 |
| 1812年 | ユーリア・マルク結婚。 |
| 1813年 | ドレスデンのオペラ団の音楽監督の地位を提供される。ドレスデンで偶然ヒッペルと再会。5月、ナポレオンのドレスデン進撃。10月、ナポレオン敗北。 |
| 1814年 | 「黄金の壺」脱稿。『幻想作品集』第一、第二巻出版。ヒッペル来訪。再就職を強く勧められる。オペラ「ウンディーネ」完成。プロイセン法務省に先ず無給で就職するため、9月、ベルリン到着。『幻想作品集』が文学界で話題となる。 |
| 1815年 | 小説の注文殺到。無給ゆえ、金の為に注文に応じる。『悪魔の霊液』第一巻出版。 |
| 1816年 | 大審院判事に任命さる(有給)。『悪魔の霊液』第二巻出版。「ウンディーネ」初演、好評。 |
| 1817年 | 有能な裁判官と誉れ高い。劇場の火事で「ウンディーネ」の貴重な舞台装置や衣装が焼け、その後上演されず。「砂男」脱稿。 |
| 1818年 | 夏、牡猫を手に入れ〈ムル〉と命名。 |
| 1819年 | 5月、「牡猫ムルの人生観」執筆開始。逮捕された「煽動活動家」たちの釈放を要求する裁定をホフマンが次々に出す。ホフマンと政府および警察が対立。『牡猫ムルの人生観』第一巻刊行。 |
| 1820年 | 初夏、「ブランビラ王女」脱稿。 |
| 1821年 | 愛国者陣営からも批判の的に。大審院上級控訴部へ昇進。11月末〈ムル〉の死。12月、『牡猫ムルの人生観』第二巻刊行。 |
| 1822年 | 「蚤の親方」の原稿、刷り上ったもの、出版人との通信文をプロイセン政府が没収。警察長官カンプツ、ホフマンを厳罰に処すよう要求。ヒッペルが手を回し、事情聴取は延期。「蚤の親方」結末を口述。「従兄の隅の窓」口述。「無邪気」口述。「敵」(未完)口述。 6月25日永眠。 |